シアタージャズライブ出演 海野雅威スペシャルインタビュー
12月2日(金)~7日(水)に、札幌文化芸術劇場hitaruで開催するシアタージャズライブ。12月3日(土)に出演予定の海野雅威さんに、サッポロ・シティ・ジャズ2022のスペシャルインタビューを行いました。
音楽を好きという想いが僕を人と結びつけ
導いてくれていると感じています
4歳からピアノを始められましたが、そのきっかけは?
初めは母からの勧めで習い事としてヤマハ音楽教室に通いピアノを始めました。練習はあまり好きではありませんでしたが、仲間が学校以外でも出来てきてピアノを弾く事が次第に楽しくなっていきました 。家族に音楽家は一人もいない環境でしたが 、当時から理解を持ってサポートしてくれていました。
9歳で早くもジャズピアノを。当時の気持ち(ジャズとの出会い、なぜジャズピアノを弾きたいと思ったかなど)をおしえてください。
両親共ジャンルに関わらず音楽ファンでしたので、家で様々な音楽を聴かせてくれていて、クラシックだけではなく、ロックやジャズのライブやコンサートにも連れて行ってくれました。ヤマハではジュニア専門コースという選抜のクラスに入れたので、作曲をする宿題もありました。ジャズっぽい曲を自然と作るようになっていて、それを見た特に父親がジャズに興味を持たせようとしてくれていたようです。
9歳の時、父に連れられブルーノート東京へアート・ブレイキーを聴きに行きました。その時のある衝撃的な忘れられない思い出があります。その晩、遅れて到着したアートがステージに向かわずに、客席の中の最年少の僕を発見し、真っ先にこちらに向かってきました。頭を撫でてくれて、満面の笑みで「Nice Boy!」と言ってからステージに向かったのです。最晩年のアートでした。その夜、生で体感した迫力あるバンドの音に圧倒され、親に「ジャズピアニストになりたい」と言ったようです。
そして、秋葉原にあるジャズ教室に通わせてもらえる事になりました。毎週、父が車で送迎してくれてレッスン中も待っていてくれました。当時は他にもオスカー・ピーターソンのライブにも連れて行ってくれました。今思えば、二度とライブで聴く事のできないジャズの巨匠のライブですから、生の音楽に触れさせてくれた両親に感謝しています。
18歳からミュージシャンとして日本で活躍されていましたが、なぜニューヨークへ移住したいと思ったのですか。
友人や先輩、様々な人のご縁に恵まれ、学生時代から徐々にプロとして活動できるようになっていきました。そのうち日本を代表するベテランミュージシャンの方々のバンドでも呼んで頂くようになり、吉田豊、海野俊輔との自己トリオでも日本中を忙しく駆け回っていました。ある年のスケジュールは350日近くも日々演奏していた事もありました。ライブという現場でミュージシャンとして充実した経験を積む事ができ、シーンで必要とされる事をとても嬉しく感じてきましたが、今度はジャズの本場、世界中からミュージシャンが集まるニューヨークでさらにジャズの文化に触れ、腕を磨き続けたいという想いが少しづつ芽生えてきました。想像できる未来よりも、より想像できない世界に飛び込みたかったですし、ジャズをわかった気になりたくなかったのもあります。実は英語も全く話せない状態でしたが、その状態で実際にそこで何を感じるか、自分に何ができるか「I’m going there to see what I can feel and do」という気持ちでした。自分で全て計画し準備万端の思い描ける人生よりも、風に身を委ねるような人生によりジャズを感じていた事もあります。
特に大きなきっかけとなったのは、かつてあのアート・ブレイキーのバンドでも活躍していた、ベーシストの鈴木良雄(チンさん)さんとの出会いでした。チンさんとセシル・モンローとのトリオで4年間活動できた事は、ニューヨークを感じられる最高の経験でした。ニューヨークの第一線をよく知るお二人から「雅威もニューヨークに渡ってみたら」と背中を押してくれた事で勇気を頂きました。また、プロデューサーの伊藤八十八さんが僕がハンク・ジョーンズの大ファンだと知って、ハンクとの縁を繋げてくれた事も大きいです。ハンクの日本でのコンサートを舞台袖で聴かせて頂いたり、レコーディングを見学させて頂く機会もあり、渡米の相談をさせて頂いた八十八さんはいつも親身になってサポートしてくださいました。そのおかげでハンクからVISAに必要な推薦状を頂く事ができました。また、ジョージ・ムラーツとジミー・コブとのレコーディングや、チンさんとセシルとのライブやレコーディングで、すでにその頃にはニューヨークを3度訪れていた事もあり、街が次第に身近に感じられようになってきた事もあります。さらに、ご高齢でも現役で活躍されていた、ハンク世代の90歳に近いレジェンドの演奏を聴いたり、交流する事ができる最後のチャンスだという想いを持っていた事も渡米を決意した大きな理由ですが、妻が新たなチャレンジを応援してくれて、最大の理解者である家族に支えられた事が一番大きいです。
18歳から28歳までの10年間を日本のジャズシーンの第一線で経験を積む事ができ、日本で育てられ、素晴らしい方に巡り会えたおかげで自然な形で移住する事が現実となりました。決して日本の環境に不満があって渡米したわけではないのが、大きな強みになっていると感じています。
ニューヨークで活動を始めて、最初に感じたことは? どんな発見がありましたか。
まずは家探し、銀行口座の開設、携帯電話の契約といった、生活環境を整えるだけでも言葉の壁もあり大変で、ピアノに触れる機会は夜中のジャズクラブのジャムセッションでのみ。そこで少しづつ仲間と知り合い、昼間にお互いの家でもセッションをするようになりました。ようやくアップライトピアノを中古で手に入れた時は渡米から3ヶ月以上経っていました。
アーティストVISAを取得してから渡米できたので、演奏の仕事ができる状態でしたが、ほぼ知り合いがいない新天地ニューヨークで、まず人と繋がらなければ演奏機会もありません。ジャズは深い伝統の上で脈々と紡がれる個性の音楽だと感じてきました。それは決して教えられるものではなく、システムや形だけを学び、ジャズを理解したような気になるような大学教育には疑問を抱いてきた事もあり、学校ではなく現場で一から経験を積む事にしました。しかし、その現場にどうやって入っていく事ができるのかが問題でした。特に昨今は学校という場ですでに人脈を作ってからシーンに出てくるミュージシャンの方が圧倒的に主流になっているので、知られるようになり活動を始められるまでには、多少時間がかかったかもしれません。
家賃や物価が非常に高く、住みにくいニューヨークで生きていくには、よほど音楽が好きでないとやっていけないと思います。そんな環境に身を置く事ができたのは自分を見つめ直すのに大切な時間でした。音楽の事を考えている時間が日本にいた時よりも増えたように思います。
当初は日本で忙し過ぎた事もあって、長期の休暇や旅行でニューヨークに来ている感覚でした。仕事が無い時にこそ、特にまずはレジェンドの演奏から聴きに通いました。そのうち、幸運な事にジュニア・マンス、フランク・ウェス、ハンク・ジョーンズ、ジミー・コブ、ジョージ・ケイブルスのお宅では長時間セッションをして頂くという貴重な経験を持つ事ができました。日本にいた頃はCDやレコードで音を通して大好きになった憧れのレジェンドですが、その人柄に触れる事ができたというのが、何よりも人生のレッスンになりました。日本から渡った20代後半の若造の僕に対して、決して見下したりせず、同じジャズミュージシャンの一員であり仲間だと受け入れてくれた彼らの温かさに今でも感動しています。また、ミュージシャン同士が互いを聴き合う事が、日本以上に世代を超えてリスペクトがあり、シーンが成り立っている事も学びました。後輩が先輩を聴きに行く事は当然ですが、偉大な先輩が客席で聴いている事もしばしばです。思い返せば、ルー・ドナルドソン、ジュニア・マンス、シダー・ウォルトン、ケニー・バロン、マッコイ・タイナー、ジョージ・ケイブルス、モンティ・アレキサンダー、マルグリュー・ミラー、ジョニー・オニールなど、憧れの巨匠が自分のライブを聴いていてくれていた事もありました。
その後、数々の素晴らしいミュージシャンと共演されてきました。特に心に残る出会い、演奏体験は?
心に残る出会いや経験は数多くあるのですが、特に今でも不思議な縁を感じずにはいられない事は、ハンク・ジョーンズの死を看取る事になった経験。ヴィレッジ・ヴァンガードでのジミー・コブとの演奏。引退されていたルディ・ヴァン・ゲルダーに光栄にもお会いでき、ジミー・コブのトリオでルディ生涯最後のレコーディングをして頂けたこと。そのレコーディングでロイ・ハーグローヴに気に入られ、レギュラーメンバーに日本人として初めて迎えられ、ロイが亡くなるまで世界中を2年間ツアーした経験など、どれもこれも稀有な経験の連続でした。
ニューヨークへ移住し、活動を続けてきたからこそ得られたと思うものは何ですか。
今までお話した全ての事が、あの時、渡米を決意していなかったら起こり得なかった事ばかりです。しかし、もしアメリカで生まれ育っていたとしても、このような稀有な経験ができていたかどうかわかりません。
不思議なものに導かれているとしか表現できませんが、自分が子供の頃からジャズに魅了されてきた事が今に繋がっている事、音楽を好きでいる事によってその想いが人と結びつけてくれて、自分を導いてくれていると心から実感しています。特にジャズレジェンドに信頼され、必要とされてきた経験は自分の音楽を続け磨いていく自信や勇気、大きな愛を授けて頂いたように感じます。彼らと演奏や演奏以外で感じた事はこれからも一生の指針として、自分の音楽の中に生き続けると思います。
そのニューヨークで、コロナ禍のなか大変な経験をされました。その時間を経て(まだ乗り越えていらっしゃらないかもしれませんが)今、どんなことを感じていらっしゃいますか。
これまで音楽を通じて、人種、性別、年齢や国境を超えて繋がれる愛に溢れる経験を幾度となくしてきました。この経験があったからこそ、一部の人が起こす事件に対して、全体否定をする事ではなく、心と体を痛めながらも、希望を信じる事ができました。この世界から差別や暴力、戦争が無くなって欲しいと切に願っています。そのために苦難を希望に変える音で伝えていくという、ミュージシャンとしての自分の新たな使命も感じています。
このたび札幌ではどんな演奏をしたいと考えていらっしゃいますか。
プログラムなど決まっていましたらおしえてください。
合わせて、北海道や札幌に抱いているイメージ、海野さんの演奏を楽しみにしている札幌のファンへのメッセージもお願いします。
今年3月にVerveレーベルよりリリースしたアルバム「Get My Mojo Back」のレコーディングメンバー、ダントン・ボーラー、ジェローム・ジェニングスとの現在のニューヨークのトリオで初来日します。札幌でもこのトリオをお聴き頂ける事がとても嬉しいです。彼らは家族のような存在で、それぞれがジャズ界のレジェンドに信頼されている最高のメンバーです。
お互いを信頼しリスペクトし合うこのトリオならではの躍動感、スイングフィール、そして何よりも根底にあるブルースを感じて頂けると思います。最新アルバムの曲を中心に、その時にしか起こらない一期一会の演奏をお楽しみ頂ければ幸いです。
札幌はジャズを愛する活気のある素晴らしい街です。渡辺貞夫さんをはじめ、素晴らしい指導者にも恵まれ優秀な人材を次々に輩出している街でもあります。長年、札幌のシーンに貢献されてきて、残念ながら旅立った福居良さん、山田敏昭さん、板谷大さん。最高にご機嫌なピアニストであった天国の彼らに捧げたいと思います。きっとどこかで聴いていてくれるでしょう。
(インタビュアー:丸谷恵子 写真:古賀恒雄)
※8月26日発行のサッポロ・シティ・ジャズ2022公式ガイドブック12ページに、本インタビューのショートバージョンを掲載しております。
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